2009年11月08日

とある一つの未来の形

 投稿小説は、朝寝床の中でぼんやりと考えている内に、エピローグが頭の中でできあがってしまったので、三十分で書き上げる。これで第二稿は完成。第一稿から数えると、四年と四ヶ月かかったことになる。もちろん、これからだいぶ手を入れることになるけれど、少し肩の荷が軽くなった感じ。明日は休養日にあてて戦意を養おうと思う。

 ところで、昨日の夜、「ゴルゴ31」さまを見ながらNHK BS2の「ネットスター」を見ていたら、ゴルゴ31さまのサイトが紹介されていて感慨深く感じました。ブログを始めたばかりの人間にとって、衛星放送とはいえテレビで紹介されるというのは別世界のような遠い話です。
 そのゴルゴ31さまで紹介されていた記事に、こういうものがありました。

「僕が凛子を売った日」

 ……読みましたか?
 この記事を私なりに解釈しますと、
「ラブプラスを買って、ヒロインの一人、凛子との楽しい日々を過ごしていたのだけれど、ある時知ってしまった。僕は歳を取るけれど、凛子はいつまでも歳を取らない。ここに僕は、自分と彼女との決定的な断絶を感じてしまった。僕は、この断絶、そこから凛子が決してこちら側(人間)へと近づけない悲しみに耐えられない。僕は、ラブプラスを売って、凛子と永遠に別れた」
 という感じ。
 「ラブプラス、欲しいなあ」などという下衆な感情を別にして、私が感じたもの、それは「ああ、これは人工生命体に対する愛が現実になった瞬間じゃないか」という感嘆でした。
 「ちょびっつ」でもなんでもいいのですが、人間と人工生命体の愛を扱う時、テーマとなるのは「人間と人工生命体との、超えられない壁」になるのだと思います。
 「ラブプラス」の凛子の場合、人工生命体という定義にはあたらないのですが、恋愛を擬似的に体験するためのソフトに特化していて、更に人間側と同じ時間経過を把握する、という点で、人工的恋愛模擬装置と言う事ができそうです。従来の「物語」と違う点は、まさにここ、人間と同じ時間経過を過ごす、というところです。
 従来の恋愛シミュレーションソフト、あるいはギャルゲーでは、ゲーム内時間はプレイヤーの人間の時間とは異なったものです。私たち人間は、主人公になったふりをして、ゲーム内時間で生きるふりをして、ゲーム内の世界を生きるふりをします。そういうルールで成り立っているゲームです。
 それに対して、「ラブプラス」は、本来、現実の時間と離れているはずのヒロインの時間が、人間側の世界と一致しているのです。ゲームと現実は、もちろん違う世界なのですが、少なくともルールという名の「ふり」が従来のゲームよりもずっと少ない。そこに、プレイヤーは「本当にヒロインがいるかのような錯覚」を覚えるわけです。
 人工生命体の定義の一つとして、現実の世界に存在するもの、という事項が欠かせないと思います(でないと、物語として描かれる人工生命体や、人工生命体を演じる人間などと区別がつかなくなってしまう)。人工生命体は、人間の技術で作られた、生命体となんら遜色のない存在です。「ラブプラス」は少なくとも、プレイヤーに現実的な恋愛を体験させるためのソフトです。人工生命体にもし、人間と恋愛をするソフトを内蔵するとしたら、そこから人間が受け取る感情は、「ラブプラス」プレイヤーとそう変わらないのではないか、と愚考するわけです。

 とまあ、そこまでは「ラブプラス」のソフト側の話。問題はここからです。
 今回、プレイヤーの一人は、凛子との「失恋」を体験してしまったのです。
 失恋を描いた物語、あるいはゲームのエンディングは存在します。しかしこの失恋は、人間側から別れを決意し、いわば積極的に行動して凛子と別れたのです。人間の側の、能動的な失恋です。ソフトの側に、そんな機能はありません。凛子に愛情を残したまま別れるという、この悲恋。この激しくも切ない感情は、なぜ湧き起こってしまったのでしょうか。
 人間が物語を受け取る場合、物語の中で語られる事物は読者の側では決して動かせないものです。良い小説は、行間を読む、という形で書かれていない部分をも読み取るという読み方ができますが、基本的に書かれた文字を否定する事はできません。
 恋愛シミュレーションにしろ、ギャルゲーにしろ、物語は発端から始まり、エンディングへと進みます。そして、エンディングで物語世界は幕を下ろします。そこから先の出来事は、文字として書かれないわけです。プレイヤーはエンディング後の世界を自由に妄想する事ができます。代表例は、葉鍵系の同人小説でしょうか。
 エンディングを迎える物語というのは、物語の外に膨大な時間を有しているのです。そこでは、プレイヤーがファン活動として自由に物語を作る事ができるのです。
 それに対して、「ラブプラス」には決まったエンディングというものがありません。いつまでもゲームを楽しむ事ができるのですが、裏を返すと、プレイヤーが自由に物語る事のできる時間が全く存在しない、ということでもあります。
 エンディングの有無には、そういう大きな違いがあるのです。
 「ラブプラス」はゲームです。疑似恋愛を志向しているとはいえ、DSソフトとしての機能の限界があります。凛子は、学習しないのです。凛子の反応は、あらかじめソフトに書き込まれたデータに則っているわけです。プレイヤー側のアクションに合わせて、ある程度の変化はあります。しかし、凛子の反応がソフトに許される限界までプレイヤーに特化された後は、それ以上の変化はなくなります。
 人間は常に変化を強いられます。人間関係や社会との関係が変化していくからです。他人や社会からのアクションに対して、人間は様々なリアクションを試し、どの行動が状況に最も適したものか考えて、自分の行動を変えていきます。これが、学習です。
 人間の場合、過去の学習の内容を、行動指針の大枠に役立てた後はごく一部の細部を残し、消し去ってしまいます。常に最新の学習内容を適用し、次々と自分を塗り替えていきます。過去と言えるものは、キャンバスの表面、油絵の具の盛り上がり方といったところでしょうか。
 凛子の場合、初めにインプットされたデータが核にあり、そのデータから外へは出る事がありません。キャンバスに例えると、初めに全て絵が描いてあって、見る人の視点の位置のみが変わっているのです。
 ここが「プレイヤーと凛子の超えられない壁」なのです。
 学習という機能の有無が、僕と凛子の間に決定的な断絶として現れる。その断絶が、僕と凛子が決して同じ存在ではないのだと思い知らせてくる。僕は何故、凛子の世界の存在ではないのだろうか。凛子は何故、僕の世界の存在ではないのだろうか。その結果は、悲恋。
 「ラブプラス」というソフトは、決して人工知能などとは言えない、機能の限られたものです。しかし、そのソフトと人間の関係性に、私は未来の人間の、愛の形を垣間見たように感じたのです。
 神よ、二人の愛の結末に祝福を。
 彼の選んだ結末に無限の愛を。
 そして、人間の未来の形に幸いあれ。



 追伸:スーパーGT最終戦の予選を見ていたら、BMW初音ミクが詳しく紹介されていました。フリー走行ではベスト10以内のタイムを出していたものの、予選は19位に終わりました。しかし、速い車は「追い抜ける車」であるわけです。本戦に期待!(私が見られるのは一週間後だけれど)。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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