2014年05月01日

「元気の出る俳句」(倉坂 鬼一郎 著 幻冬舎新書)読了

 投稿小説は、自分の書けることや書きたいことをまとめていかなければならないと感じているところ。書きたいと思うことのハードルばかり積み重ねていて、実際に書く文章がまったく思いつかないので、今までと違うアプローチをする必要性を感じている。

 少しずつ味読していた「元気の出る俳句」(倉坂 鬼一郎 著 幻冬舎新書)を読み終わりました。
 倉坂先生の俳句評は、古書店で少しずつ集めていた「幻想文学」誌にて知り、チョイスの面白さと評価軸が個人的なツボに入ったので、2012年に出版された一冊目の新書アンソロジー「怖い俳句」(幻冬舎新書)は大注目していました。
 その一冊目のアンソロジー「怖い俳句」は、読者が怖さを感じるであろう俳句をテーマに様々な俳句が紹介されていました。恐怖というのは、人間の精神、感情、つまり皮膚の内側に生じるものなので、怖い俳句を紹介していく文章も次第と人体の内側、裏側へと迫っていくものとなっていました。五感では決して捉えられない、本文から引用するなら「原形質のぶよぶよしたもの」にいかに迫れるか、具体的なテクニックや思考の方法などを解説しながら、読者の中にある恐怖という感情そのものへと迫っていくのが、「怖い俳句」でした。その典型なのが、阿部青鞋(あべせいあい)の項目だと思います。
 かわって二冊目のアンソロジー「元気が出る俳句」では、同じ感情でも元気が出るという複数の感情を伴うテーマです。人が元気になるには、何らかの働きかけがあったり、あるいは本人が五感から何らかの刺激を受けることになります。なので、本書では人間が皮膚で感じるもの、あるいは外部で生じたなにがしかの物事を詠んだ俳句を扱っています。「怖い俳句」では、人間の裏側へと迫るあまりに俳句から作者が徐々に消えていくのに対して、「元気が出る俳句」では作者やそこに詠まれた他者の存在が大きな比重を占めます。作者は何を見て好ましく思ったのか、また他者が喜び嬉しがっているのはなんのためか。人間が元気を得るためには、他者の幸せな様子を感じることが必要なのだと、本書を読んでいて思わされます。基本的にたった十七音の俳句ですが、それが人間の精神へと働きかけ、実際には自分以外の人間など目にしていないにも関わらず他者からの幸せを受け取り、自らの幸せとして生きるための糧とする。そのように考えてみると、言葉というのはすごいものです。

 ちなみに、俳句の中には「短夜や乳(ち)ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてっちまをか)」(竹下しづの女 「怖い俳句」より)や「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」(三橋鷹女 「元気が出る俳句」より)といったどこか不健全なものもありますが、人が悩み落ち込み生きる力を失いかけている時には、知識人とやらが書く流行の啓発書や心理学本などより、不健全な俳句の方がよほど為になると思っていたりもします。
 だって、自分が他人に表立って言えないことを、堂々と俳句として発表されると、すかっとするでしょ?
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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