2016年04月25日

たまにはアニメの話でも

 ドラマ「昼のセント酒」を録画溜めしておいて観ていく作業を始める。五郎さんは心の中で呟くタイプだったが、こちらの主人公は割と口に出すタイプのよう。

 今季のアニメは、割と楽しめているのですが、ネットで話題を見るとみなさん結構不満を言葉にしているようで。自分の中にある「架空の理想のアニメ」と比べて、それに劣っている部分を抜き出して批判しているように見えます。
 しかし、自分にぴったりとはまる、理想の様なアニメなど、十年に一本あるかないかというくらいでしか作られていないのではありませんか?
 そもそも各人にとっての理想は、それぞれバラバラなのです。ネットでまとめて読むと、全体として何か理想の形のアニメがあるように感じられますが、錯覚です。統一されていない基準でものが語られているので、一つ一つの言葉が指す意味が異なってきます。これがよかった、あれがいけなかったと語られる言葉のひとつびとつ、どの部分がどのようによかったのか、どうすれば自分の好みになったのか、そしてその好みとはどのようなニュアンスを持ったものなのか、そこに非常に大きな幅が生まれます。こうした言葉の曖昧さは何もネットに限られた話ではなく、面と向かって話し合う二人の人間の間でも起こり得ます。言葉ってむつかしいですね。
 私個人の話をしますと、小説で好きな物を探す場合、月に何百冊と出る新刊本には脇目も振らず、古書店へ入り浸ります。新刊が一月に何百冊と出るなら、過去にはそれよりもっと膨大な、何百冊×何百カ月という気の遠くなるような数の書籍があります。自分の好きな本がある一定の確率で存在するとなると、せいぜい直近の数か月分しかない書店よりも古書店に行った方が、本の出版期間が広い分、見つかりやすいというものです。
 実感として、本当に自分のためにあるような本、というものと出会うことなどそうあるものではないのですから、少々のハズレくらいなら目くじらを立てる必要などないというもの。
 放送中のアニメというのも、新刊本のようなもので、いくら放映数が多くても好みにぴったり合うようなものなどそうはありません。大衆娯楽なのですから、様々なニーズに応えられるよう、多様な要素を取り入れて作られますが、相反するような要素も同時に満たされるよう制作されることもあり、そうした場合は要素の一つずつが薄まりマニアックさの度合いが下がります。専門性が低くなるとも言い替えられましょう。それは視聴者の不満にもつながりますが、より多くの視聴者に受け入れられるためには必要なことと判断されたことなのです。そうした制作姿勢は、アニメが大衆娯楽である間は変わらないでしょう。様々な妥協が加えられるのは仕方のないことなのです。
 ただ、時には何を考えているのか、とてもマニアックなアニメが放映されることもあります。その方向性によっては、ある一部の視聴者、例えば私やあなたの琴線に触れるやも知れません。
 そうした「私のためにあるようなアニメ」に出会える日を楽しみにしつつ、ちょっと不満はあれど多種多様で、それでいて変わらないアニメ作品の群れを見続ける。そういった視聴姿勢があってもいいのではないか。言葉と言葉の齟齬が日々生み出される世界の片隅で、そんなことを主張してみたいと思います。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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