2017年11月17日

楽しい読書の日とジャスコ聖地特番

 今日は趣味の読書。海軍関係の文庫本を読む。楽しい。
 アニメ「Just Because」の特番を視聴する。古久屋は出てこなかった。あのアニメは、そういう聖地とかゆかりの場所とかより、たまたま背景に映った場所に見覚えのあるところが多い、という感じで観てるなぁ。逗子駅近くだったり藤沢駅前だったり、絵になる部分を選んで使っている感じだから、生活圏を特定できるような感じではないけど、実景も印象的な場所だからアニメを観てすぐに特定できる。これはこの監督さんの特徴なんでしょうね。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:10| Comment(0) | アニメ雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

やばい「月がきれい」

 世間では、飛んできたミサイルを撃ち落とすことすら「戦争参加」になるからやめるべきという人がいる。憲法九条を守るために、都市に飛んできたミサイルをむざむざ落とさせろという主張だが、それって、天皇制を守るためにどんどん特攻隊を出した軍部とどこが違うんだと思う。何かを守るために人間を犠牲にせよという考えを未だにする日本人は、第二次大戦で何を学んだんだ。

 ところで、アニメ「月がきれい」はやばい。
 並みのラノベ原作アニメやラブコメアニメなら、主人公は自分とはかけ離れたキャラなので視聴中では赤の他人、全くの絵空事だと安心して観ていられる。どんなに主人公がもてようと、いい目を見ようと、自分とは異なる存在の話だと思っていられる。
 だが、月がきれいは、リアリティのレベルがぐっと近い。もしかしたら自分にもこんな人生が、と思わせられるラインで設定されている。下衆な話を書くと、お金を稼ごうとして作られている作品なのだから、現実とは少し違う世界を描こうとされている事は他の作品とは変わらない。だが、その違う部分、現実との差がかなり少ない。
 これはやばい!
 主人公がヒロインといい関係になっていくと、嬉しくなる。だが番組が終わると愕然とする。オレにはあんな彼女はいない、いなかったと知って愕然とする。人生損している気持ちになる。自分にもあんな甘酸っぱい青春があってしかるべきだと思い、後悔してしまうのである。
 だが待ってほしい。「月がきれい」は娯楽作品なのである。自分とは異なる架空の人物の話である。視聴者が観たいと思うものを見せる商業作品なのである。テレビで観たい、作品のブルーレイを買いたい、と思わせるには、視聴者が現実では滅多に味わえない物語を作る必要がある。現実と全く同じでは、観ないし買わない。テレビの前から離れればいいからである。テレビの前から離れると得られない物。それがアニメである。
 だから、こんな甘酸っぱい青春は、大方の視聴者は現実では味わっていない。平均的な日本人は、こんな体験をしたことがない。
 ……と、ここまで考えてようやく落ち着くことができる。作品世界のリアリティから、現実の世界へとようやく戻ってこられる。
 このギリギリのラインは、やばいですよ。現実に帰ってきた時の喪失感がすごい。このアニメの主人公にならなれたんじゃないかな、という誤解がまだ解けない内の、人生にぽっかりと開いてしまった穴が幻覚として見えてしまう。
 これはすごいことだね。自分が書くような傾向のものではないけど、とりあえずしばらくの間は毎週体験できるのは嬉しい。
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2016年11月03日

なのはにはイタ車たくさん

 昨日は不安定な天気に腐ってだらだらしてしまう。
 今日は、こたつを出すために部屋中を掃除。無事に炬燵布団を据え付ける。さて、というので炬燵に入って寝転がってしまい、夕方までだらだらしてしまう。こたつは危ない。肝に銘ず。

 なのはシリーズの最新作ともいうべき「ViVid Strike!」が放送されていますが、なのはシリーズといえばイタ車の名前が登場人物たちにつけられています。第一作目の「魔法少女リリカルなのは」の、主人公のライバル、フェイトちゃんのファミリーネームが
「テスタロッサ=Ferrari Testarossa」だった時点で、イタリア車がお好きなんだろうなと思っていましたが、本作では主役格の二人が
「レヴェントン=Lamborghini Reventon」と
「ベルリネッタ=Ferrari F12 berlinetta」ですからね。二人のマスコット的魔法動物と宝石型魔法デバイスも、
「ウラカン=Lamborghini Huracan」と
「スクーデリア=Scuderia Ferrari(フェラーリのレーシングチームの名前。スクーデリアとは厩舎の意味で、転じてチームの意味)」なので、シリーズを通してみても特にイタリア車臭が濃厚な感じになっております(ついでに、ランボルギーニとフェラーリの闘いになってますね。ネーミング的に)。
 他にも、様々なところにイタリア車やレーシングドライバー関連の言葉が出てくるので、好きな私はチェックしつつ観ています。多趣味だとこういうところで生きていて楽しくなれます。
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2016年10月16日

悪夢の中に天然少女

 録画しておいたアニメを少しずつ見ています。その中で気になっているのはアニメ「フリップフラッパーズ」。
 どうしてこういう事を思いつけるのか、という不思議な空間を作っていて面白いです。
 この不思議空間は、犬カレーさんのようにデザインで産み出したものではなく、物体の形が不思議になっているところが個人的なツボでした。何らかの理屈に基づいていそうでありながら、その理屈がわからないという点で、夢の中みたいな感覚がありました。
 どうしてこんな事を考えたかというと、今、古書店で内田百關謳カの本を漁っているからだと思います。短編小説には、話の辻褄や主人公の感情が悪夢の中でのように取り留めのないものが多く、それゆえに「夢を描いた小説」と評されることもあります。
 その取り留めの無さ、しかしどこかに理屈が通っていそうな悪夢のような世界。漁り始めてしまった内田百闕品と、このアニメの不思議空間が、妙に似通っているようで琴線に触れました。
 この、悪夢的な世界観では、他にも「女子攻兵」がありましたね。他にも、書棚を眺めればいくつか出てきそうですが、私はこういうものがたまらなく好きなんでしょうね。
 フリップフラッパーズの方は、悪夢の中を彷徨うストーリーにも関わらず明るいのは、主人公に付きまとって冒険に誘うキャラが、とにかく明るいからでしょうね。キャラクターデザインというのが如何に物語の方向性に関わっているかという話です。
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2016年04月25日

たまにはアニメの話でも

 ドラマ「昼のセント酒」を録画溜めしておいて観ていく作業を始める。五郎さんは心の中で呟くタイプだったが、こちらの主人公は割と口に出すタイプのよう。

 今季のアニメは、割と楽しめているのですが、ネットで話題を見るとみなさん結構不満を言葉にしているようで。自分の中にある「架空の理想のアニメ」と比べて、それに劣っている部分を抜き出して批判しているように見えます。
 しかし、自分にぴったりとはまる、理想の様なアニメなど、十年に一本あるかないかというくらいでしか作られていないのではありませんか?
 そもそも各人にとっての理想は、それぞれバラバラなのです。ネットでまとめて読むと、全体として何か理想の形のアニメがあるように感じられますが、錯覚です。統一されていない基準でものが語られているので、一つ一つの言葉が指す意味が異なってきます。これがよかった、あれがいけなかったと語られる言葉のひとつびとつ、どの部分がどのようによかったのか、どうすれば自分の好みになったのか、そしてその好みとはどのようなニュアンスを持ったものなのか、そこに非常に大きな幅が生まれます。こうした言葉の曖昧さは何もネットに限られた話ではなく、面と向かって話し合う二人の人間の間でも起こり得ます。言葉ってむつかしいですね。
 私個人の話をしますと、小説で好きな物を探す場合、月に何百冊と出る新刊本には脇目も振らず、古書店へ入り浸ります。新刊が一月に何百冊と出るなら、過去にはそれよりもっと膨大な、何百冊×何百カ月という気の遠くなるような数の書籍があります。自分の好きな本がある一定の確率で存在するとなると、せいぜい直近の数か月分しかない書店よりも古書店に行った方が、本の出版期間が広い分、見つかりやすいというものです。
 実感として、本当に自分のためにあるような本、というものと出会うことなどそうあるものではないのですから、少々のハズレくらいなら目くじらを立てる必要などないというもの。
 放送中のアニメというのも、新刊本のようなもので、いくら放映数が多くても好みにぴったり合うようなものなどそうはありません。大衆娯楽なのですから、様々なニーズに応えられるよう、多様な要素を取り入れて作られますが、相反するような要素も同時に満たされるよう制作されることもあり、そうした場合は要素の一つずつが薄まりマニアックさの度合いが下がります。専門性が低くなるとも言い替えられましょう。それは視聴者の不満にもつながりますが、より多くの視聴者に受け入れられるためには必要なことと判断されたことなのです。そうした制作姿勢は、アニメが大衆娯楽である間は変わらないでしょう。様々な妥協が加えられるのは仕方のないことなのです。
 ただ、時には何を考えているのか、とてもマニアックなアニメが放映されることもあります。その方向性によっては、ある一部の視聴者、例えば私やあなたの琴線に触れるやも知れません。
 そうした「私のためにあるようなアニメ」に出会える日を楽しみにしつつ、ちょっと不満はあれど多種多様で、それでいて変わらないアニメ作品の群れを見続ける。そういった視聴姿勢があってもいいのではないか。言葉と言葉の齟齬が日々生み出される世界の片隅で、そんなことを主張してみたいと思います。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする