2014年06月07日

その「劣悪」の評価軸は?

 今日も怪談三昧。ただ、投稿小説もじわりと進む。正直なところ、文章の質はあまり高くないと思う。けれどそんなの、あとで直せばいいと言い聞かせて先に進む。

 事件の発覚当初は控えていたけれど、世間で反応があったので少し独り言。
 今の世の中は便利なもので、国会での質疑応答がネット上に書き起こされていて、後から簡単に観ることができます。
 その内の一つ。
 「ニコニコニュース」にて衆院法務委員会の様子が読めます。そこで、吉田有希ちゃん殺人事件にかこつけてマンガを規制すべきだという主張を唱える議員と、反対する議員(双方共に、自民党の議員です)、そして谷垣法務大臣の質疑応答です。(リンク:http://news.nicovideo.jp/watch/nw1097431
 そこで、規制派の先生は、児童ポルノマンガというものを「劣悪」だと言い、劣悪な表現は自粛してもらいたいということを発言しています。劣悪な表現は委縮するべきだと。
 その発言の中の「劣悪」とは、どんな評価軸に照らしたものなのかと問いたいです。
 「素晴らしい創作活動」の例として、例えば「手塚治虫作品」「サザエさん」「ドラえもん」「ゴルゴ13」、それに「ワンピース」「テルマエ・ロマエ」が挙げられています。
 それらと「劣悪な表現」の間に、どんな差があるのかと。

 海外で、児童の性的な姿態や虐待を描いたアニメやマンガを規制していない、と批判されたことを気にされていらっしゃるようですが、そもそも日本と海外での性的コンテンツの扱いには大きな差があることを考慮するべきだと思います。アメリカには、「ドラえもん」はそのまま輸出できません。しずかちゃんの入浴シーンをたまたま目撃してしまう、という場面はアメリカでは禁止されています。
 キリスト教の価値観が反映された法律のある国では、性欲に関しては人間の内面に関して規制をかけてくることを躊躇いません。キリスト教の特徴として、人間の愛情をコントロールする傾向があり、ハイ・ソサエティーにいる人間にとっては、神様に許された「異性間での神に許された愛」=結婚こそが正しいという主張こそが正しいからです(教会で結婚式をすると、神の前で誓いをするでしょう? 愛情は本来、神にこそ向けるべきもので、例外として結婚相手にだけは愛情を向けてもいいですよ、というのがキリスト教の結婚なんですよ)。
 こうした主張は、欧州では徐々に後退していき、フランスでは同性婚も認められるようになりましたが、アメリカでは州によってはキリスト教的な価値観が非常に強い地域もあります。キリスト教の影響が強い国では、避妊さえも禁止され、ストリートチルドレンが問題になっていたりする現実があります。
 彼らの価値観では、異常性愛を抱く人間の心をこそ罰すべきものとなります。十戒を厳密に適応するなら、他人を姦淫する想像をするだけで犯罪となります。夫婦以外へ性欲を向ける人間、その中でも特に目立つ同性愛者、小児性愛者はかっこうの標的です。他人に迷惑をかけずとも、その心が醜いのだと。
 当然、同性愛者や小児性愛者を物語で描くことも醜いでしょう。
 アメリカの映画でも、ゲイが主人公として描かれるのは戦後しばらく経ってから。キワモノとしてカルトムービーで熱烈な愛好者を生む映画は作られても、大衆向けのゲイ映画が作られたのはベトナム戦争が厭戦感情を生み政府への信頼が大きく失墜してからだと思います。
 そのように、性愛に関して非常に厳しい宗教的な規制を設ける国と日本とでは、規制の基準が大きく違うことを、考えてみるべきだと思います。

 翻って、「劣悪な表現」である児童ポルノマンガの規制です。
 その劣悪さとは、どんな評価に照らしたものですか?
 絵のクオリティー? 登場人物の感情の深さ? それとも売上部数ですか?
 それとも、倫理的な正しさですか?
 その正しさは誰にとってのものですか?
 キリスト教?
 規制団体?
 それとも、あなた個人のものですか?



 公の場に長々と駄文を書き連ねてしまい、申し訳ありませんでした。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

動き始める「東京都青少年健全育成条例」

 改正された後、改正された新しい規制部分に初めて引っかかったマンガが出ました。エロいマンガである「妹ぱらだいす!2」なのですが、引っかかった理由がエロいからではなく、「近親間の性的関係を肯定的に描いているから」。近親間の性行為は、別に法律違反ではない事に注目。
 ついに暴れ始めましたね。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月13日

アメリカ銃社会を連邦政府が撲滅できない理由?

 ようやく、今季の新深夜アニメを全部観ました。あと、F1マシンよりもスーパーフォーミュラのマシンの方が格好良く見えます。

 以前、どこかでアメリカに蔓延する銃は、連邦政府が国民を裏切った時に立ち向かうためでもある、という旨の話を聞いたことがあります。一応、知識として頭の片隅に置いておくことにしたのですが、最近、連邦政府が農場主から農場を取り上げようとした件に反発する武装民兵が農場に集結して、武装した係官と対峙する事件が起こっているそうです。連邦政府の行動に対し、地元の州知事や保安官も反発しているとか。
 全ての銃所持者ではないでしょうが、民兵と呼ばれる団体や人物の中には、連邦政府が間違ったら言う事言ってやるぞ、と思っている連中がいるということは証明されたでしょうか。
 ちなみに、アメリカでは射撃場で自動車を標的に一斉に銃をぶっ放すイベントとかあるので、遠射能力はわかりませんが民兵たちの射撃の経験は豊富でしょう。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

歩兵という言葉のリアル

 ウクライナは、個人的には中国に空母とフランカーの艦載型プロトタイプを売りやがった国という認識。

 それはともかく、某新聞にていわゆる知識人が「今はもう二十一世紀、大国同士の戦争など起こるはずがない」というコラムを書いていたが、その夕刊の一面がウクライナ情勢の記事で、時代は目まぐるしく、現実は怪奇なり、と認識を新たにしました。
 ウクライナのクリミア半島情勢は、黒海艦隊を擁するロシアが、EU側へと大きく舵を切ったウクライナに対して黒海をEUと米国に握られたくないために、艦隊根拠地のクリミア半島を自勢力に置くため仕掛けた、事実上の戦争だと見ているんですが、上述のコラムニスト氏や世にいう知識人の方々がどのように考えているのか、ぜひ知りたいものでございます。
 戦争、というと、日本のマスコミや知識人にとって、日本の関わった前の戦争、太平洋戦争のイメージがかなり強いと思われます。その証拠として、反戦を掲げる方々が使う言葉として徴兵制や軍国主義といったものを多く使うということが挙げられるかと思います。上のコラムにしても、戦争が起こらないという根拠として、兵器の破壊力が増大して双方が兵器の応酬をしたら国が持たないということを訴えています。
 しかし現実にウクライナのクリミア半島で起こったことは、まぎれもない戦争の一種です。この現実の戦争と、日本で使われている戦争という言葉の乖離が、起こっていると言えるでしょう。
 原因として、日本が太平洋戦争において、米国の生産力によって大量に生産・配備された陸海空の兵器によって本土が完膚なきまでに破壊されたという知識があるからだと思われます。島嶼戦における日本軍の玉砕、日本本土に対するアメリカ陸軍航空隊のB−29による空襲、戦争末期には近海からアメリカ海軍艦艇による艦砲射撃まで受けての敗戦。
 餓えと病気による戦病死という側面の強い南方での戦争の記憶を除けば、多くの日本人にとって戦争とは、大空からばらまかれる爆弾や焼夷弾となるのです。
 多くの書籍を読み知識と教養を深めているはずの知識人でさえ、戦争とは兵器の破壊力を以て敵対国を破壊するもの、という知識や記憶から逃れられず、現実で起こっている戦争とはまったく相容れない戦争論を説いている、というのが個人的に認識し納得している日本の状況です。
 この日本人にとっての戦争論には、大きな過ちがあります。
 戦争の目的とは、ある国(ここではA国としておきましょう)が別の国、B国に対して行動を強要することです。この行動には、領土の割譲や不平等な条約への承認、賠償金の拠出などがあげられます。
 この目的さえ果たされれば、別に兵器の破壊力を行使する必要は無いのです。

 クリミア半島の情勢へと例えると、黒海を抑えるために必要な要衝であるクリミア半島をロシアの勢力下に収めるため、ウクライナ本国の行政権を行使できないようにするために、国籍をぼやかした軍隊を急派して行政組織や軍事力を掌握し、クリミア半島へ向かう道路を封鎖してウクライナ新政権からの増援を絶ち、ロシアの影響下にある勢力によるクリミア半島の自治を開始しようとしている。そんな状況です。
 領土ではないですが、事実上の傀儡政権を成立させてロシア政府の命令に従わせようとしているのですから、これはもう戦争と呼んでもいいのではないですか? そしてロシアは、戦争に勝ちつつある、と。

 このクリミア半島情勢に大きな働きをしたのが、謎の武装組織として報じられた歩兵です。NHKでは、国籍不明の職業軍人と報じたらしいですが、このロシア軍の最新装備を持ち、無線通信で完全に統制下に置かれた歩兵部隊は、クリミア半島でウクライナ新政権の行政を担う役人、公務員へウクライナ政権から与えられた仕事をするなと命じたわけです。あえて武装勢力の命令を無視してウクライナのための仕事をしようとすればどうなるか、ウクライナの公務員でない私にもわかります。
 これこそが、ある国に対して行う強要の見本です。どの国が起こす戦争でも、最終的に行うべき行為、占領地の統治です。
 どんなに大量の爆撃機が絨毯爆撃をしても、軍艦が海上を封鎖しても、別の国の行政権を奪う事はむつかしいです。度重なる空襲で瓦礫の山と化した第二次大戦末期の東京でも、政府の命令により粛々と都市の営みは続けられました。警官が治安の維持をして、日本政府の作った法律を守らせていました。東京は町が破壊され尽くしても、それだけでアメリカの法律が適用されたり、日本軍の東京出身者が勝手に連合軍へ投降したり武装解除を買って出たりはしませんでした。それは、日本の政府が敗戦したことを公表し、占領軍がやってきて占領統治するまで、起こらなかったのです。
 そして、占領統治という仕事は、歩兵にしかできません。A国がB国に強要する具体的な項目を伝え、B国の役人へその仕事を強要するのは、歩兵の役割です。歩兵がライフルを持って役人の前に立ち、命令が伝わらなかった時に役人がどうなるか想像せざるを得ない銃口をちらつかせ、役人が強要された仕事を行うのを確認することは、歩兵にしかできない役割です。
 空母を沖合で遊弋させたり、ステルス爆撃機を飛ばしたり、街角に戦車を置いて警備させても、それだけでは戦争の目的を果たせません。逆に、空母が出動しなくても、爆撃機が爆弾やミサイルで何かを破壊しなくても、戦車の主砲が火を吹かなくても、戦争に勝つことはできる。ある国、ある地域の行政機構を歩兵の銃口の前に収めてしまえば、戦争には勝てる。
 歩兵の銃口が適切な場所へ素早く展開することで、戦争は成立し、かつ勝利を得られる。
 今回のクリミア半島情勢は、そんな歩兵という兵科の役割について、現実の中で目の当たりにさせる出来事だと言えるでしょう。

 最後に。表題から想像された方もいらっしゃると思われますが、本記事は押井守監督と岡部いさく氏の対談本「戦争のリアル」の内容を援用したパロディでもあり、「戦争のリアル」という本を援用するとクリミア半島情勢がこのようにも読めるという実践例でもあります。
 現実に起こった戦争に対する感想と、書こうとしていた本書に対する批評があまりにも被る内容になってしまったので、このような内容になりました。どうかご容赦を。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 01:10| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月28日

航空ファン誌の表紙から考えた、ロボットアニメの弱点

 投稿小説は進まないので、本を読みまくる。「空白の天気図」以降は資料と既読の本。

 一応、軍事者としてはロボット物に対する偏見はあるんですが、新作アニメが出れば観るんです。アニメを観ていて、リアリティーがあるかどうかはあまり考えないようにしているんですが、軍事関係はつい突っ込んでしまうんです。だから、ロボット物はちょっと苦手意識があります。
 それというのも、主人公機がなぜ強いのか、具体的な描写が無いのが不満なんですね。ガンダムのファーストは観られました。面白かった。ただ、最近のロボットアニメで、主人公の乗る機体がなぜ強いのか、わかんないことが多いんですね。
 何故なのか。
 今月号(2014年4月号)の航空ファン誌の巻末に、表紙の写真に関する徳永カメラマンのコメントが載っているんですが、これが面白かったんです。写真は、シンガポール空軍のアクロバット飛行隊、「BLACK KNIGHTS」のF−16二機が、垂直上昇しながら左右にブレイクした瞬間なんですが、徳永カメラマンの乗っていたF−16の複座型(F−16D BLOCK52)は人間一人分余計に乗せる装備分に、追加で背中にハンプバックと呼ばれる突起が操縦席から垂直尾翼までつながっていて、その重さと空気抵抗の分だけアクロバット機の単座型より機動性が劣っているので、カメラ機が単座型に追い付くのが大変だったとあるんです。同じF−16でも、単座型と複座型(ハンプバックというおまけつき)でそこまで違ってくるのか!
 翻って、ロボットアニメです。ロボットアニメにはこの、機体の違いによる特性が描かれないんです。空中戦では、個々の戦闘を取り上げて見てみると、この種の特性が帰趨に関わってくるんですよね。例えれば、いま流行の零戦は、最高速度が頑丈な米軍機より劣るので、アメリカ機が急降下で速度を出して逃げると速度制限のせいで逃げられてしまう、とか。
 思うんですが、宇宙空間みたいに重力が関係ない場所ならともかく、惑星の表面で戦っている限りは重力を利用して降下した方が速く逃げられるんですね。ミサイルを撃たれたりとか、レーザーの照準を付けられそうだという時には、実は降下した方が振り切りやすい。でも、降下を繰り返すと高度が下がりすぎて、もう降下できなくなる。左右に逃げるなり上昇するなりしようとすると、降下する時ほど素早くは逃げられない。と、この様に重力でロボットの動きを縛ってやると、各機体の性能差が引き出しやすいんですね。
 機動用ロケットモーターの出力が低いから、下へしか逃げられない旧式機とか、ロケットの出力が高い分だけ機動の回数が限られる格闘機とか。ロケットは強力だし燃料も積んでるから継続戦闘時間が長いけど、積んでいる分だけ重いから機動し始めがとろい機体なんかも作れます。
 そんな縛りの中で、画期的なシステムを積んだ主人公機が、そのシステムゆえに勝利したり、システムのデメリットを突かれてピンチに陥ったり、そういう仕組みを作った方がロボットの個々の機体にロマンチシズムが生まれるし、愛着も湧いて、ついでにプラモも売れると思うんですよね。少なくとも、プロポーションや細部のディテールしか売りが無い主人公機のロボットアニメより、個人的には観たいものになると思います。
 似たような方向性のアニメで先行例として、ガールズ・アンド・パンツァーがあげられます。ただしガルパンの場合、個々の戦車よりもチームの持っている戦車の生産国の個性を引き出していましたけれども。

 ていうわけで、軍事者が提案する面白いロボットアニメ、面白いロボット戦の提案、如何でしょうか。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする