2013年09月14日

「石原規制法」の提案

 愚痴が続きます。
 警視庁の動きは、出版各社に成人コミックに関して話したいことがあると呼び出しをかけたというものだということ(元ネタ:http://www.cyzo.com/2013/09/post_14478.html)。
 まあ、これだけでは詳しいことはわからず、呼び出された出版社の具体名と警視庁からの申し渡しが明らかにならなければ、今後はどういうことになるのかは読めません。
 個人的に思う事は、コアマガジン社に対する逮捕劇の後にコミックに施された規制の内容を見るに、もう青年誌と同じレベルの修正を施しているので、いっそのこと成人マークを外して一般向けで売っちまえばいいんじゃないか、という感じです。大人しか買えないコーナーに置く本に、子供が買う本と同じ規制を求めるのでは、もう大人向け子供向けという区別なんか意味が無いんじゃないの、と思うからです。

 まあ、先走って不安がるのも怒るのもバカバカしいので、鬱憤は飲み込んでじっくり待つことにしますが、問題はこの件だけに限りません。いわゆる、都条例という奴です。
 石原都政下で制定されたこの法律は、「表現の自由には別に口は出さないよ。出版すれば。ただし売る方は自由にさせないがなw(筆者に悪意あり)」という内容です。書店を取り締まることで、実質的に表現の規制をするというこの法律、過去にも規制に関してとある一般書店が白泉社の「ベルセルク」を店頭から引き上げた事例があり、逮捕する対象を小売業に向けることで表現の自由には踏み込まずに規制をする効果的な内容だと思います。
 で、ツイッターなどで予想されているのが、オリンピック期間に東京の店頭から成人コミックやアニメ・ゲームの類を無くそうと規制が強化されることですが、この都条例の改正で乗り切るんじゃないかと当方は予想します。オリンピック招致に熱心だった石原慎太郎氏のこと、オリンピックを見計らって都条例を作ったんじゃないか、とここまで考えると頭の悪い陰謀論者になってしまいますが、とにかく店に出せない本を出版社が刷るわけはなく、正直なところ適法の範囲内でエロいマンガが買えなくなってしまうのではないか、と不安なわけです。
 単純に、成人コミックがアンダーグラウンドに潜ってやくざのしのぎになるというだけでなく、このブログでも取り上げて信者を増やそうと蟷螂の斧を振り上げている「女子攻兵」とか「ホーリーブラウニー(完結済み)」なんかが書店から消えてしまう可能性もあるんじゃないかと危惧します。マニアックだったりフェティッシュなものが、いかがわしいものというレッテルを張られて顧みられることもなく発禁状態になるのは、たまらないよなぁ、口惜しいなぁ、と。

 で、ですね、今後もし都条例が牙を剥いて書店から本を消そうとした場合、すでに責任を取れる立場にない石原氏に文句を言っても仕方がないので、今後の立法機関や責任者になにがしかの懸念を抱いてもらうため、都条例を「悪法、石原規制法」と名付けてやり玉にあげようではありませんか、と未来の有権者に提案します。悪法を敷けば悪名として為政者の名が残るぞ、というわけです。
 あ、そういえば、強力に推進した警察官僚もいた。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月31日

毎度の感が出てきた「児ポ法改正法案」雑感

 忙しいのですが、動きは追っています。
 時間も無いし、あえて直截的な言葉を使いますので、18歳未満の方はここまで。大人の方は「続きを読む」で。
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posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月31日

森美術館「会田誠展 天才でごめんなさい」へ行って来る

 今日は、投稿小説が終わったら行こうと思っていた会田誠展へ、最終から二日前にようやく行ってきた。
 以前、現代美術に関する展覧会で目にしてから、久しぶりに実物を見た。発売されていたカタログは、長らく絶版だった初期作品集と第二作品集の内容を含めた、やっと手に入ることになった集大成的なものだったけれど、残念ながら貧乏な私には手を出すことができなかった。
 それにしても、あれだけの作品が一堂に会することはもう無いんでしょうね。

 で、ここからは真面目に十八禁の話題をするわけですが、お嫌いな方はここで引き返し下さい。



 朝日新聞の紙面で朝日新聞の影響下にある児童ポルノ抗議団体の意見が載ったり、それに関連してネット(私が見たのはツイッター)でも話題にされたのが、犬シリーズという一連の作品に対する抗議でした。
 作品群は、手足の先を切られた少女が、首輪をつけられ飼い主と思われる画面外の人物に媚びた笑みや吠えかかる犬のような表情をしているというものなんですが、会田誠作品にはたびたび美少女の裸が題材になっている中で特にやり玉に挙がったのは、直接的に嗜虐性が表現されているから、とのことでした。
 まあ正直、他の作品がよくて、犬シリーズだけがいけない理由はさっぱりわかりませんでしたが。「ジューサー・ミキサー」などは、巨大なジューサーの中で美少女たちが百人単位で潰されている大作なんですが。
 それで、思ったわけです。この手の抗議団体が目指すのは、非常に料簡の狭い感じで、ある個人が生理的に嫌悪感を感じるものを世界から消し去ることなんでしょう。
 で、彼らにとって最も許せないことは、美少女(十八歳未満)をイコンにする(イメージさせる)マスターベーションの道具なんでしょう。
 美少女ゲームという、エロい紙芝居に声を吹き込んだだけの、モザイクの範囲が日本で一番厳しい(だって、陰毛までモザイクで隠すんですよ)メディアに、他の何をおいても抗議するのは、設定的には十八歳以上になっているものの明らかに十八歳未満の美少女体型のキャラクターがヒロインとして扱われていることが多いからでしょう。
 表現的なもの、その技術的な手法に限って言えば、美少女ゲームが駄目なら官能小説もおいろけマンガも映画の中のセックスシーンも全て駄目になってしまいます。週刊誌のグラビア程度でも禁止されます。しかし、美少女ゲームが特別に攻撃されるのは、現実には無いほど純化された美少女というイメージ(日本社会に深く根付いたもの)が性欲の対象として露骨に扱われていることが彼らの生理的嫌悪を呼び起こしたのでしょう。
 公の中へ、個人の趣向を反映させるというのは、怖いことだと思いますね。私にはそういった行為が逆に生理的嫌悪感を感じさせます。

 で、今回。抗議を受けた犬シリーズの隣に、十八禁作品の部屋の隅に半ばひっそりと、美少女という動画作品がありました。壁に「美少女」と大書きした前で、会田誠さんがマスターベーションをするというパフォーマンス作品です。
 今回の抗議というのは、せんじ詰めればこの「美少女」という作品を禁止する方向の運動だと感じました。美少女ゲームというのは、結局この「美少女」の字が具体的な絵と物語になっているだけです。アップルがアダルト的としてモバイルで閲覧するのを禁止したニコニコ静画の問題も、エッチな絵が「美少女」だったからですし。
 このような現状を鑑みるに、抗議を受けることになった犬シリーズの隣に「美少女」が展示されている事に、キュレーターの底意を感じる様な気もします。



 十八禁終わり。
 帰り道に、安い飯も求めて秋葉原へ行き、中古ショップを巡っている内に夜になり、初音ミクの痛車を眺めた後に帰宅。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月23日

SF的いじめ対策提言

 今日は、書店に行くも財布を忘れたり、つい怠けてしまって投稿小説がレポート用紙半分しか進まなかったり、実りが少ない一日。

 二つのいじめが関わった自殺が起こり、いろんな人がああでもないこうでもないと言葉を交わしている。まあ正論もあるし筋の通った論もあるのだが、私にも意見があるので書いてみたい。
 断っておくけれども、非現実的な提言である。
 このような事件が起こると、当たり前だが様々な感情が巻き起こる。いじめられていた子が可愛そう、だとか、いじめっ子が許せない、殺してしまえ、とか。人間なのだから、それは普通のことだ。だが、それはいじめ対策では邪魔なものだ。
 いじめの当事者も様々な感情を抱く。いじめられた者は、いじめられた自分が惨めに感じる。たいていは親にいじめられた事実を隠すが、それはいじめられた子を持つ親もまた惨めに違いないと感じるからだ。だから黙って死んでいく。
 いじめた方だって、悪いことをしているのは知っている。知っているから隠す。見えない様にする。また大人が見せる態度をそれとなく見ていて、許されそうな範囲で悪さをする。先生や親が特定の子供をぞんざいに扱えば、周りの子供も相手をいじめるようになる。
 そういった諸々の感情は、人だから当たり前に生じるものだけれど、対策を施す際には最大の障害物になる。
 この際、いじめというのは一種の社会現象、複数の人間が組織を作れば一律に発生する可能性のある現象であると仮定して、いじめられる人間も、いじめる人間も、関わらない様に見過ごす人間も、人間関係の上で避けられず発生する力学的なものだとみなし、この現象「いじめ」を解消してやれば一切を不問とする、とすればいいのではないかと思う。
 風邪みたいなものだということだ。
 風邪は引いてしまうものだから、引いたら対処して体を治してやる。
 同じように、いじめ現象が発生してしまったら、人間関係をフラットに戻してやる。
 という感じで、対策にヒューマニズムを排除するのだ。
 関係者全てが感情を持っているから、いじめを隠すのだ。現場から感情を排除する方向で対処してやれば、隠さなくとも良くなる。
 いじめられた自分、というものが惨めでなくなれば、こういう日常が起こる。
 ある日、子供が親にこう言う。
「オレ、いじめられてるみたいなんだ」
「そうか。じゃあ先生に対策してもらわないとな」
 親に相談を受けた先生は、クラス会でこう言う。
「このクラスでいじめが起こりました。人間なのでいじめを起こすのは仕方ありませんが、クラス全員に悪影響を及ぼすので無くさなければなりません。ケアをしますので、あとで家庭面談のお知らせを渡します」
 そうして、ダイエットをするために体質改善をするようなお手軽さと、ある意味ストイックさをもって、人間は自分を見つめる必要があると思う。いじめてしまった自分を。いじめてしまうかも知れない自分を。
 そして、いじめられた者が惨めでないのと同様に、いじめた者も不問に処す。という風に全ては上手く……いくわけがないのは、前述の通り人間が感情の生き物であることから察せられるが、このような方向で、ヒューマニズムの有無を含めた議論まで、人間というものを掘り起こしてみるべきだと考える。
 何だか、いま放映中の「サイコパス」というSFアニメちっくだと思うけれど(シビュラシステムっぽい)、ヒューマニズムの排除をディストピアの発露という方向ではなく、感情の克服という良い方向で見てみるのも一つの案かと思った次第。

追伸:ステマじゃないよ!
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月10日

見方を変えてみる(F−35導入の話)

 投稿小説は、レポート用紙三枚分。やりゃできるじゃん、と思いきや、面倒くさい仕掛けから解き放たれて得意な部分に差し掛かったからだった。

 日本の戦闘機好きの中には、F−4EJ改 ファントムUの代替としてF−35Aが導入されることに不満がる方々がいらっしゃいます。35は、戦闘機としては性能が物足りないというのがその理由です。
 確かに、対戦闘機戦闘のスペシャリストとして開発されたF−22Aと比べると、おんなじ新世代ステルス機としては格闘戦闘能力は劣ります。加速性能も、最高速度も、22と比べると全く劣ったものですし、ひょっとすると15と比べても厳しい面があるかも知れません。ハードウェアとしての35は、空中戦においては格別すぐれた面はありません。
 しかし、見方を変えてみるとどうでしょうか。
 35は、性能的に空中戦よりも対地攻撃に比重を置いた機体です。ステルスを生かした運用をするために、光学センサーを充実させています。機内の搭載能力も、レーザーで誘導してやる必要のないGPS誘導爆弾JDAMの、2000lb大型爆弾を二発搭載した上で、自衛用の空対空ミサイル二発を装備できます。
 機体の性能からすると、これは空中戦に特化したF−15の後継機ではなく、対地攻撃に特化したステルス攻撃機F−117に近い新世代機といえると思います。この新世代機は、空中戦もこなせる上に、専門の機体ほどではありませんがレーダーを電子攻撃に使用することもできます。F−35一機種で、爆撃と援護、対空施設制圧というストライクパッケージを組ませることができるのです。
 中国側から、航空自衛隊がF−4EJ改とF−15J pre−MSIPの後継機としてF−35Aを導入したというニュースを見ると、このステルス・ストライクパッケージを日本がそれなりの機数で中国側に送ることができるようになる、というものになります。これは、主に迎撃機しか装備していなかった日本の空軍戦力の大転換として映るでしょう。
 すげぇ嫌な話に見えるんじゃないでしょうか。
 戦争になったら、日本は北京をステルス機で爆撃できるようになるのです。防空網は突然攻撃され大混乱し、迎撃に出たはずの戦闘機もステルス機を確実に探知できる能力はありません。

 日本も空母だ、とか巡航ミサイルとか、はてはミサイル原潜で中国に核ミサイルを向けるんだ、なんて向きもいらっしゃりますが、数年後に配備が始まるF−35Aという機体をもっとポジティブに評価してもいいんじゃないかと思います。
posted by 匿名希望の茅ヶ崎人 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | おたく的批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする